甲斐の武田ばっかりが武田じゃない!
若狭にだって、上総にだって、安芸にだって武田氏は栄えていた。
武田高信のことだって時々で良いから思い出してあげて下さい
しまった、カッコが・・・・
だが、気を取り直して。
庁南武田氏の最後の当主武田豊信は、武田信玄の三男というのを
しばしば見るんだが、信玄の三男って夭逝してなかったっけ?
スレ主ではないが、失礼・・・
甲斐武田氏
安芸武田氏
若狭武田氏
因幡武田氏
上総武田氏
仙台藩士武田氏
水戸藩士武田氏
医家武田氏
土佐武田氏
これら皆全国に散った清和源氏武田氏の一族、いやはや・・・
>>3 連投すまぬ、
武田信玄3男は信之だな。1561年ぐらいに11歳で夭折してる。
この信之が秀吉に攻められ1590年自害した上総武田豊信と、
同一人物である、と上総武田氏系譜に記されてるらしい。 しかし信じるのはなかなか難しい・・・らしい。
不勉強なので、これ以外のこの事に言及してる資料は
知らない、すまん・・・ 武田繋がりで養子に出されたと言うやつだな。たいがいの資料はこの説らしい(真偽は別として)
ただ仮に武田豊信=武田信之とすると、甲房同盟がもっと面白くなるんだが…
>>6
伝承では仁科盛信が、息子を逃がす際に武田豊信が実兄であるとして
頼ったという話もあるらしいな >>6
連投すまぬ
そうなると、信玄と里見の同盟を、信玄の息子が仲介した形になるんだよな >>9
そう。
史実でも、同族ということで武田信玄が庁南の武田豊信に仲介を依頼したらしい 実力行使で分家しちゃった上総の武田信長と、一時的には下克上してしまった因幡の武田高信が好きです。
熊川城は瓜生の松宮氏に攻められて落ちた。その後、熊川城は松宮氏の支城となった。
そういえば、木下勝俊、利房兄弟は若狭武田氏の出自だという説を
見た事が有るんだが。
信玄が謙信とあんなに争う事になったのは、東海道は今川に抑えられていたから、京を目指すため日本海側に出て
若狭武田氏との合流を目指していたため、と言う説があるがどうなんだろ?
実際今川が滅びると日本海ルートはさっさと放棄してしまったようだが。
武田が上洛を目指すためなんて後世の虚構だろう
北信の領有を巡って謙信と対立していただけで、
武田氏は北信制圧に失敗している
若狭武田氏を語るには、河内松宮氏と若狭松宮氏と加賀松宮氏を調べないと駄目でしょうな。
その他に、円覚寺管長を努められ、明治の禅を大きく展開された釈 宗演 老師が小僧修行をされた、若狭 高浜町の長福寺と若狭武田氏は、深い関係に有ると聞く。
若狭武田氏は、「殺 佛 殺 祖」の教えを説く臨済禅を信仰されていたのかも知れぬ。
因みにゲーム「信長の野望」で若狭武田氏でプレーしてみたが、けっこう強く、天下統一を果たしましたよ。
やはり、海を持っているという事は商売にも戦にも有利です。
若狭武田と合同するより上総武田と合流して関東制覇した方が楽だとおもふ。
九州探題かつ若狭・安芸・甲斐守護で上総・薩摩・紀伊・土佐武田家の
始祖である武田信武についてここまでコメントがゼロってどういう事?
武田といえば信玄より石和五郎よりも断然信武でしょ。
若狭松宮氏が織田信長に協力したから一向宗と朝倉を滅ぼす事が出来たんですよ。
>>26
実際の所、遠縁の同族と交流とかあったのかな?
畠山みたいに本家と分家とかなら、合流論とか出てもおかしくないけど。 甲斐武田滅亡時に義統の弟が甲斐にいて殺されたという話があるな。
これだけじゃ根拠は弱いが多少の交流はあったのかも。
甲斐 若狭 安芸とも守護家だけど 室町期の格としてはどうだったんだろ?
>>33
甲斐は15世紀〜16世紀初頭にかけては動乱の時代。
一族内で覇権を巡って抗争を繰り返し、関東に手を出したりしてはいるが、
甲斐一国すら治まっていない状態。
漸く安定を見るのが信玄の親父である信虎の代の治世終盤。
若狭は15世紀を通じて基本的に細川京兆家と結託して安定した時代。
しかし16世紀初頭以後頼みの細川氏が内乱により衰えると、
当然煽りを受けて衰退の道を辿るようになる。
安芸は分郡守護に過ぎず、若狭の分家としての立場でしかない弱小勢力。
さらに応仁の乱の西軍方であった大内氏が周防、山名氏が備後にいたため、
勢力を保持するのでやっとの状態だった。
格ってのが何を指すのかはわからないが、
中央政権が頼みにしたのは甲斐の武田ではなく、若狭の武田。
武田氏からすると嫡流筋の甲斐>若狭>安芸だったろうが、
幕府から見ると若狭>甲斐>安芸なのは明らかだろう。 >>34
>安芸は分郡守護に過ぎず
南北朝期だけですか、安芸一国の守護だったのは >>36
>>33の指す安芸武田氏が氏信〜信繁の前期安芸武田氏を指すとは思えず、
元綱〜信実の後期安芸武田氏を指すと思われるので、安芸守護時代は無視した。
前期安芸武田氏は若狭武田氏の安芸在住時代とも言われる。
武田氏の安芸統治時代は三期に分けられ、
前期は鎌倉時代、中期は若狭守護獲得以前、後期は若狭守護獲得以降
となる。 足利義昭に付き従って鞆まで行った忠臣に武田信景という武将がいるらしい
若狭武田氏の兄弟らしい
母は六角氏らしい
武田信豊の子が、義統と信景だっけ?
本能寺の変で明智方についたのは、義統の子・元明。
上総の武田信長は、姓名判断だけで考えると
戦国最強だろうな。
後瀬山城(小浜市)に守護館があったから 本拠そのものでしょ。
以前読んだ本によると、武田の嫡流は若狭(甲斐→安芸→若狭)で、若狭本家と呼ばれて
いました。京に近く幕府とも繋がりの深かった若狭なら、たしかにそうだろうと思いますが。
安芸分郡守護の武田刑部少輔元繁の譜代家臣で板垣繁任や伴繁清、その他一条・飯富などの名前が見えますが、
甲斐家の譜代の板垣信方などと同族なんでしょうか?
>>55
板垣氏・一条氏・飯富氏は甲斐のそれと同族と思われる。
信光・信時・信武・氏信のいずれかの安芸守護時代に安芸に下向し、
土着して勢力を敷衍させたものだろう。
伴氏は安芸武田氏の分家。「伴」は安芸国沼田郡にあった地名。
ほか、山県氏に関しては同族ではあるものの、由来は一条・板垣・飯富らとは異なる。
12世紀に美濃から安芸に下向した人物を始祖とするのが安芸山県氏、
14世紀に美濃から甲斐に下向した人物を始祖とするのが甲斐山県氏で、
両者とも美濃山県氏の分家に当たる。 遊佐氏が河内、能登、二本松の畠山家にそれぞれいたように主家が分かれた際にそれぞれくっついてったんじゃないの?
山縣有朋の山縣氏と飯富昌景が継いだ山県氏も同族な気がする。
有朋の先祖が安芸武田家臣でその後毛利に仕えたってのは地理的にありえそうだし。
まあ根拠はないですが。
若狭本家5代の元信は歌人としても優れていたと聞きます。ほとんど京都にとどまって
将軍御側衆を勤めていたからでしょうが、甲斐や安芸とは違い、どこか洗練されたイメージが
ありますね。
歌道は若狭武田家のお家芸みたいなもの
義統以降はそれどころじゃなかったらしいけど
>>59
信豊も晩年は連歌などをしてすごしてたらしいしね。
そういえば、木下勝俊・利房の実父が武田元明って話の出展って
なんだろうな?時々「木下家に伝わる」みたいなことを言われてるのを
見るけど。
(そういえば、勝俊も歌人として有名だなあ) >>30
武田信玄が上杉−北条の「越相同盟」に対抗して、
安房の里見との「房甲同盟」を結ぼうとした時に、
上総武田氏(庁南家)の武田豊信に仲介を依頼してる。
この武田豊信っつーのは信玄の三男という説もあるんだけど、俗説の域を出ない。 >>61
同族と言うことで、付き合いがあったのかな? 上総家だと嫡流の庁南家より傍流の真里谷家の方が有名だよね。特に国府台合戦の
一因を作った小弓公方足利義明のパトロン武田三河入道恕鑑(信保)。この人の子供の
たちで跡目争いが第一次国府台を生んだ。
若狭って、もともとは一色氏の領国だったよね?
一色氏を丹後一国に追いやったわけだから
さぞ仲が悪かったろうね
たぶん底力は一色の方が上なんだろうけど、
若狭武田のバックには幕府やら細川やらがついてるから
一進一退のグダグダ展開に
越前の朝倉義景の母親光徳院は武田元信の娘だよね。元信は義景のおじいちゃんという
わけだ。だから、一族の逸見氏が謀反を起こしたときに朝倉氏が鎮圧に協力したんだね。
武田氏は若狭が嫡流、甲斐が庶流、安芸が若狭の分家。上総は右馬介信長に始まる甲斐の分家(嫡流が庁南、
庶流が真里谷)。
付け足すと、甲斐源氏は逸見氏が嫡流、武田氏・小笠原氏などが庶流。
義光流ってくくりにすると佐竹氏が嫡流候補に名乗りをあげてきます
普通は勢力の大きさや地位だろ>嫡流認定
血統で嫡流が決まるなら、こんな楽なことはない
>>77
アホだな。嫡流か否かは血筋で決まるに決まってんだろ。
家の勢力の大小は嫡庶とは別問題。
もうちょっと調べてから物を言え。 >>78
血筋上では直系の子孫であっても嫡流じゃない人物
血筋上では傍系の子孫なのに嫡流である人物
こんなのゴマンといる 朽木家なんかは嫡流が6000石、庶流の種綱家が10000石だな。
庶流が嫡流扱いされるのは、嫡流がよっぽど没落してしまった時くらい。
伊予河野の家臣にも武田氏がいたみたいですが、
全然情報ありませんね・・・。
上総の情報が今一つですね。第一次国府台合戦の主原因は上総の真里谷家が作ったんだけどね。
唯一実力者として真里谷の武田恕鑑(信保)が親父の信勝(信嗣)とともに「上総守護、真里谷城主、
生実(小弓)御所執権」として資料にでるくらいで、あまりよくわからない。本家である庁南の武田宗信
(公方高基派)とも対立してたようだが。地元千葉の人で詳しい方いらっしゃいます?
安芸武田氏は江戸時代周防玖珂で過ごし今じゃ広島県呉市に大きな学園を持つ
現在末裔たちでは周防武田氏(安芸武田氏?)が一番隆盛なのかな?
安芸武田信武は元弘の乱の時、どっちに着いたの。甲斐の方は六波羅攻めに加わっていたようだが
千早城に釘付けになっている間に幕府が滅亡してしまって討幕挙兵した政義に党首の座取られたんじゃない
>>10の本はあと1000円安ければ買ってもいいんだけどな >>95 面白かったけど、甲斐家ほど資料がないため、ところどころに物足りなさも
感じました(特に安芸家)。乏しい資料をよく集めたという作者の執念に脱帽ですが。 なんで佐東銀山城って言うん?
銀が産出されるなんて話は生まれてから一度も聞いた事無いんじゃけど
そんな語尾におじゃるつけそうな武ちゃんは、お断りニダー
>>97
大森銀山で有名な銀鉱脈があの辺には通ってるみたいだから、平安時代以前は産出したのかもしれん。
江戸時代の民話では既に今は昔のこととして語られてたような気がする。 なるほど参考になりました
子供の頃に水晶は時々拾って帰ってたんじゃけどなんで銀山って言うんか不思議だったんです
住宅だらけで公害型の店が集まっている場所があるところ
若狭武田は細川に味方して松永長頼に近江でぼろ負け。
丹羽長秀に元明が謀殺されて若狭本家は滅亡したんだよね。武田の嫡流だったのに。
>>112
木下勝俊と木下利房が実子と思うんじゃ! >>119
鎌倉末期から南北朝初期の安芸武田氏(安芸守護家。後の甲斐武田氏)と
室町中期以降の安芸武田氏は(若狭武田氏の分家)はやや異なるから注意な。
血統は同じなんだが(安芸守護家→若狭武田氏→安芸武田氏)、微妙に違うのだ。 >>121
蠣崎氏は自称では若狭武田氏の出自としている(始祖武田信広)。
但し若狭武田氏の家系図に信広に該当する人物は見当たらない。
もし武田家の血縁であっても、若狭・安芸・甲斐の武田三家のような関係は存在していない。 >>123
その説はよく言われるんだが、典拠史料なんだっけ? 蠣崎氏の出自に関しては100%信用できる資料は存在しない
若狭武田説は蠣崎松前氏による自称であり、それを証明できる客観的な資料はないのが実情
俘囚説は武田氏出自説を否定する場合によく使われるが、
こっちは状況的な予想でしかなく、資料的な裏付けは存在しないと思った
で、他には南部関係の資料なんかを見ていくと、
蠣崎蔵人の乱に破れ蝦夷地に逃れたとされる蠣崎蔵人を祖とみなす考えも出てくる
この場合も武田氏の流れになるだろうが、傍流にもほどがいう感じ
たしか蠣崎氏は若狭武田氏に使者を送って挨拶してるな
1548年とかですな>若狭に使者派遣
その後も何回か音信を通じているようです
元々小浜は日本海交易最大の拠点でしたから、
交易を通じて蝦夷地との商業的なつながりがあったことは間違いないでしょう
(これを元に蠣崎氏の出自を交易で蝦夷地に出入りしていた商人に求める意見も存在はするらしい)
蠣崎家が使者を送ったのもこの交易からのつながりではないかと思われます
先週かな?小浜の神宮寺で「お水送り」があったようですが、
神宮寺と言えば、まさに若狭本家が屋敷としても使っていたところですよね?
写真でしか見たことありませんが三門に武田菱の幔幕が掛かってた覚えが。
相撲のニュースがあるとよく出てくる武田頼政氏はどこの子孫なの?
すみません、質問です。
上総地方に勢力をもっていた庁南武田氏、及び真里谷武田氏の人物で
・1582年当時に存命
・諱と多少の事績がわかる人物
上記に該当する人物っていますか?
どちらも最後の当主となった武田豊信(庁南)・武田信高(真里谷)くらいしか
わからなかったので
>>133
甲斐武田氏の仁科盛信の長男・信正が、甲州征伐から庁南に逃れて来ていたような。
あと、
庁南2代目の宗信の次男・白井信方の息・信勝(5代豊信の後見役)、
庁南豊信の長男・氏信(1590年の庁南落城に際して落去、のちに城下で帰農)、
真里谷信高の長男・勝房(のちに宮原義勝に仕えて下野足利に移住)、
こんなもんでしょうか。 >>135
そこらの図書館にあるかはわからないけど、
千葉日報社から平成12年に出た永嶋信恒『知られざる甲斐・上総史 戦国大名房総武田氏と信玄』って本が参考になるかと。
定価3千円。 >>135
以下の論文が上総武田氏研究の最新成果だと思います。
黒田基樹「上総武田氏の基礎的検討」(『袖ヶ浦市史研究』6号、1998年) 若狭国主である京極高次の重臣で若狭高浜城主の佐々義勝って若狭武田氏の末裔?
だれの子ですか?
南北朝時代の武田信武の正室は足利尊氏の姪らしいのですが誰の娘か判明しているのでしょうか。ネット上では高義の娘や側室二階堂氏の娘など出てるのですが、尊氏の近親て直義、赤橋氏、加古氏など子供自体が少ないんじゃ
頼朝公から武田に与えられた伊豆守の称号を受け継いでた若狭が
やはり武田の嫡流だったんですかね?甲斐は石和流の庶流だと訊きました。
佐倉城の追手門が庁南城の追手門らしいですね。
武田の城門だったんですね。
>>142 信虎は陸奥守、晴信は信濃守ですから、
代々伊豆守を踏襲した若狭は武田の嫡流で間違いないでしょうね。 >>136 著者は庁南家の後裔の方みたいですね。庁南が中心で真里谷家がどうしても扱いが雑な印象です。
真里谷は庶流なので致し方ありませんが、その本だと三代武田信保と三河入道恕鑑が別人になってますね。
大抵の本には同一人物(小弓公方足利義明のパトロン、房総管領)とされてましたが。
これは目から鱗でした。 >>145 庁南の武田宗信は小弓公方と敵対する古河公方足利高基派ですな。 昨日、久々に『毛利元就』のDVD借りてきた。宍戸開氏演じる武田元繁がよかった。武田軍の
猛将熊谷元直(石田登星氏)がかっこよかった。元直といえば、頼朝の家臣熊谷直実の子孫。
元繁の後ろでたなびく武田菱のノボリが何とも言えません。武田家自体の家臣は福島信之くらいしか
(名も無き郎党役で蛍雪次郎、渡辺哲氏らが出ていたが)出ていないのが残念。譜代の板垣繁保、
伴繁清あたりが出るべきだった。ちょっとスレ違いだな。すまん。
>>147 緒形拳氏演じる尼子経久に「武田氏(うじ)が望まないなら何も言わんが、甲斐源氏の名門武田が滅びていくのが
見るに耐えられない」とか旨いこと言われて大内に反旗を翻すんでしたよね。あれを言われちゃうと元繁も乗せられざるを
得ませんでしたな。 話変わりますが、若狭って地元小浜の人は武田の本家が守護だったことをご存知なんでしょうか?
以前に一度小浜へ行ったことありますが、武田関係のものが小浜駅前にも特に無かったもので。
武田=甲斐(山梨)の信玄みたいなイメージが強いから
他の武田ゆかりの地に行っても扱いは小さいのが実情じゃない?
>>155 千葉の人は知ってるのかな?
真里谷武田三河入道恕鑑が房総管領(自称だけど)だったのを。 >>161
隣国朝倉との抗争もあったし、朽木家みたいに避難所でしかなかったのかもw 安東氏の代官が置かれた小濱の湊を通じて安東氏の所領出羽、津軽、蝦夷地方面と連絡を取っていたようだ
甲斐武田氏の庶流で各地に散らばって「武田」を名乗らなかったけど
祖先は武田なんだよ、って勢力(旗に武田菱を使ったような)にはどんなのがあるでしょう?
例えば紀伊の湯川氏とか。ああいう感じの
>>164
一応南部や香曽我部も先祖は武田。
甲斐武田氏の庶流ではなく甲斐源氏の一流だが。
甲斐武田氏の成立と甲斐源氏の成立は別物だから、その点は注意しとけ〜。
>甲斐武田氏の成立と甲斐源氏の成立は別物だから
どういうこと?、ご教授を
甲斐源氏は逸見氏が嫡流、武田や小笠原が傍流でしたね。
ちょっとざっくり言いすぎですが。
義光流の嫡流って意味になると佐竹氏が参戦してきます
えーと、じゃあ、甲斐武田とか若狭武田とか「武田氏」を名乗った勢力以外で
何か武田にゆかりがあって「武田菱」を使った勢力っていうと誰がいますか?
佐東銀山城主武田刑部少輔元繁の譜代板垣繁保や伴繁清は武田菱ですが。
ま、これは当たり前ですよね。
>>174
熊谷、香川ほか安芸の国人多数を引き連れて強大になった元繁が
なぜ弱小国人の毛利の次男坊ごときに負けたんだろうね? >>175
あれは常々不思議に思うが、運が悪かったとしか言いようが無い。
熊谷元直、武田元繁が共に弓で射殺されるなんてほとんど奇跡。
射殺っていうか矢が当たって落馬して首を獲られただけど。
決戦を急いだっていう逸りが間接的な原因だとは思うけど、
一連の戦いで先陣の大将が射殺、本軍を率いる一家の当主も射殺、なんて、
かなり珍しい類例じゃないかな。 お、御屋形様!おやめください!毛利方の挑発に乗ってはいけませぬ!
>>176
そうですね。大河『毛利元就』でも、石田登星さん演じる熊谷元直がおびき出されて
あっけなく、そして宍戸開さんの武田元繁も単騎で毛利に突入して死亡と、あまりに
悲劇が重なってしまいましたよね。西の桶狭間(こっちの方が先ですが)と呼ばれる
合戦でしたが、武田が勝っていたら(大内に潰されたでしょうが)安芸統一くらいは
できたかな? 元繁の父親は若狭の武田本家当主国信の弟元綱だね。
元綱健在の頃は、安芸に侵入する大内軍を撃破してたんだが。
>>180
大河「毛利元就」中では、
「安芸守護の地位を取り返す」
(宍戸版武田元繁)と言ってましたね。
まあ、幻に終わりましたけどw 若狭武田みたいなマイナー戦国大名は最初から天下をとるのはあきらめているわけで
その分張り合いがなかったと思う。
朝倉に拉致されちゃったけどさ
頑張ってはいたんだよ
織田も尾張半国のマイナー大名だったのだが。
でも信長が織田氏でなく南部氏とか宗氏とか隠岐氏に生まれていたら
天下は取れなかったろうなあ。
>>191
今は内陸部の津島が河港として賑わったから、それで潤って勢力を拡大できたんだろうね弾正忠家は。
だいたい守護斯波氏の守護代家の分家でしかない弾正忠家、特に信秀の功績が大きくない?スレ違いすまん。 武田家て元弘の乱で討幕軍に属したのですか?信武には幕府方とされてるが息子の項には討幕方の父に従いとあるが
正月休みはヒマだから、なにげにヤフーオークション見てたら若狭武田氏
の古筆切が出品されてたんで驚いた。
武田元信は三条西実隆とも交流のある文化人でもあるから伊勢物語を書写していても不思議ではないな。
武田元信はじめ若狭武田家歴代は細川京兆家と親密な関係にあったらしいから、
都の公家とも親交が深いのは当然だろう
公家も頻繁に若狭国には下向してたらしいね
若狭武田氏は細川高国と共に没落したともいえる。
細川晴元流の下、丹波守護代の内藤氏を継いだ松永兄により武田家臣団は、
分裂させられてしまい・・・。
若狭武田氏と勢力圏を接していた大名は朝倉以外ではどこがあるの?
東隣が朝倉
北は海。
南と西に割拠していた大名は誰だろ?
西は一色じゃダメ?
南は直接接してる大名はいないんじゃ?
朝倉との関係はどうだったの?
別に悪くはなかった?
>>204
保護占領されて、当主は拉致されてますな。 丹後一色とって若狭武田は当主を殺して領国を奪った不倶戴天の敵
>>204
義景の母親が若狭本家国信の娘さんじゃなかったっけ?
ところで岩井三四二氏の最新作「城は踊る」の舞台が上総になっていて、武田左近将監なる
人物が出てきます。主人公の武将がその一族が籠る榎沼城を攻める話ですが、これは上総武田氏
(庁南か真里谷かは不明。おそらく庁南系、つまり嫡流の分家の設定かも)かと思われます。左近将監
(左京大夫とほぼ同意)なる人物は架空の人物でしょうが、さすがは岩井さん。マイナーな戦国の人々を
描かせたら一番です。 残っている事績も少ないし知らない人も多いから、やりやすいというのもあるんじゃないん?
上総武田氏の
「武田信長」
は名前だけは天下人っぽいな。
>>206
> 丹後一色とって若狭武田は当主を殺して領国を奪った不倶戴天の敵
それは知らなかった。
歴史好きでも無名大名のことはあまり知らないよなあ。
戦国期の隠岐氏や真壁氏のことを語れといわれても無理だしな。 >>211
武田家としては若狭が嫡流なんだけどね。傍流のの甲斐の方が有名になっちゃったからな。 本貫に残ったのが嫡流という主張はどこから来ているんだろう。
>>211
足利義教の命令で若狭、丹後の守護大名だった一色義貫が暗殺され、
若狭国の守護職が将軍側近の武田信栄に与えられたのが若狭武田氏のはじまり
応仁期で東西に分かれて争うなど、地味な覇権争いをgdgdやってた
若狭武田の方が将軍や管領の受けはいいんだけど、在地支配力は元々の守護だった
一色の方が強かったりするからいつまでたっても終わらないし、若狭武田は将軍や管領との付き合いで
畿内の内紛にずっぽり首を突っ込んでいたから結局どっちも浮かび上がることはなく・・・ 地味な覇権争い=昔のパ・リーグの優勝争いみたいなもんだな。
>>214
将軍家に乞われて安芸若狭の守護(いわば栄転)になった武田家が分家を甲斐から送るなんてことはなく、
すべて嫡流が当地に移動している関係で若狭を武田の本家とする見方があります。安芸から若狭に移った
本家が代官として安芸に残したのが元綱や元繁などの安芸武田氏。 それは安芸武田氏の嫡流が若狭へ移ったという話しで
当時安芸武田氏が武田宗家だったかと言うのが問題の焦点などだと思うお( ^ω^)
安芸武田・若狭武田ばかり名前がでるけど丹後の守護にも武田家はなってるよ
とくに丹後最東端の加佐郡は戦国時代も武田家の支配下(影響下)にあったはず
武田家の家臣達が丹後加佐郡の方々に城を構え、ほとんど分郡守護状態だとおもう。
そういえば戦国時代の丹後って注目したことないなあ。
松前氏や宗氏のスレもあるからな。
さすがに隠岐氏のスレはないが。
>>221
応仁の乱で西軍が敗れたのち一色家・山名家は領地に引込んでしまい
元東軍の細川・若狭武田に押されっぱなしで・・・みたいなかんじじゃ 応仁の乱で西軍が敗れたとはいっても、惨敗ではなく降雨コールド負けみたいな感じ
だったからなあ…。どうなんだろ。
>>226
史実としてその後細川一家が京都を牛耳り
山名は山陰へ引っこんでしまったからねえ。
細川の後も、結局は細川の守護代あがりの三好の天下だったから、これも細川。
まあ三好も、斯波の守護代?の織田にやられちゃうわけだから
山名・細川より、斯波が偉いというわけ。
W すごいスレがあったんですね
話では400年前、残ってる資料からすると享和(上野、群馬)あたりには武田氏ものです。
私のご先祖様はどの武田っぽいでしょうか?
wikiによると小田原征伐後に下野し、いまも血脈は続いているそうな
てっきり途絶えたとばかり思っていたよ
武田信長の人生はどこを切っても波瀾万丈すぎて大河ドラマにしても
尺が足りないくらいエピソードと戦いのてんこ盛り。
しかもほぼハッピーエンド。ドラマにしてくれる人がいないかね。
名前の上下を別にすればビッグネームになるけれど、いかんせん当人はマイナー過ぎる
とはいえミラージュブーム以前に、直江が大河ドラマになるとか言っても
信じた人はいないだろうし、石田三成が井伊より人気者になるとか、
長宗我部が女の子にキャーキャー言われるようになるとか、メジャーと
マイナーの概念なんて簡単に覆るものだからなあ
岩井三四二氏の「城は踊る」の舞台の上総榎沼城の城主武田左近将監は、
上総武田氏(庁南か真里谷)がモデルみたいですね。攻める方が里見方の青山信濃守。
武田側の軍師が北条綱成の玉縄城から来た僧籍(山本道鬼のような者か)。
国府台合戦も話の中にちらと出て来ますので、食いついてしまいました。
ちとスレ違いでした。申し訳ありません。
>>241
私も読みました。非常に面白かった。戦の目的が…でしたが、それもあの時代にありそうなことで
大した大儀もない合戦がリアリティを与えてました。映画は無理でもテレビドラマにしてもよさそうな
気がします。
甲斐、若狭、安芸、上総はそれぞれ交流とかはあったの?
上総武田氏の武田豊信は、武田信玄の子だという説がある。
武田元明に生き延びる道は無かったのだろうか
明智方でも首謀者の明智一族と斉藤利三、長浜城襲った阿HEY以外はほぼ許されてるのに彼だけ処刑
>>249
安芸は若狭から派遣された代官的な存在だったから、一番血は濃い。
但し、室町殿足利義澄と足利義材(義伊)の争いで義澄方についた若狭に対して
義伊方についた大内氏(義興)に追随した安芸が結果的に本家である若狭
から独立した形になった。もっとも、その後元繁が尼子経久と共に大内義興に
反旗を翻すことになるのだが。 若狭武田氏は戦国時代には小規模ながらも水軍は持っていた?
武田元明の継嗣である義勝は武田姓をはばかり津川姓を称した。のちに津川義勝は親族である京極高次に重臣として仕えた。
古裂会オークションに武田信栄の書状が出ていたが応永12年の日付だった
まだ生まれてないよw
三善氏系図という巻物に貼り込まれているようだが
別人か、あるいは三善氏が自己の権益を主張するためにのちに偽造したと見た
若狭一国でどれだけの兵力動員できるのよ
てか隣の一色とずっと争ってるのに上洛する余裕無いでしょ
酒井讃岐守忠勝12万5000石
よって、最大動員可能兵は3750人。
義稙連れて上洛した時は一色をどうやって抑えてたんだろう?
室町時代は直接室町将軍に仕えていた
若狭・安芸武田氏のほうが嫡流扱い
そりゃ確かに家格自体は決して低くはなかっただろうけど
もう1560年代に入るか入らないか位の頃から
ろくに家臣も出仕してこなくなりかけてる状態で嫡流扱いも糞もないような…
>>276
実際の権勢はなくても、官位はそれなりに高かったのかどうか気になる。 武田氏の血統で江戸時代まで武家として残れたのは国重氏くらいかな?
>>281
たしかに自称なんだが、僭称ならもっとメジャーな家を名乗ると思うね。
あと、武略もひととおり修得しているんで、それなりの武家出身でなかったとは考えにくい。 >>279
「大名」じゃなくて「武家」?
だったら、信玄の次男・海野信親(竜芳)、五男・仁科盛信、七男武田信清の
家系が旗本として残ってるじゃん >>282
若狭武田流を名乗ってるけど
室町戦国時代の若狭武田は名門じゃないか 陸奥武田氏・・・甲斐武田氏庶流?松前氏ではなく小国氏のほう
常陸武田氏・・・甲斐武田氏庶流
上総武田氏・・・甲斐武田氏庶流
相模武田氏・・・甲斐武田氏庶流?上総武田氏一族?
甲斐武田氏・・・武田氏嫡流。あるいは安芸・若狭武田氏庶流
京都武田氏・・・安芸武田氏庶流
若狭武田氏・・・武田氏嫡流。あるいは甲斐武田氏庶流
因幡武田氏・・・若狭武田氏庶流?
安芸武田氏・・・武田氏嫡流。のちに若狭武田氏分家
阿波武田氏・・・甲斐武田氏庶流?阿波細川氏重臣。東条氏を名乗り東条国氏・東条関兵衛が有名
淡路武田氏・・・阿波武田氏と同族?淡路細川氏重臣
漏れとか間違いがあったら訂正お願いします
avexのアイドルグループ・GEMのメンバー
武田舞彩
福井県、つまり旧若狭の国出身で
そして武田姓
回りくどいことは言わん
ズバリ、これって現代の武田の姫じゃね?
見た目の可愛さは橋本環奈に十分対抗できるトップレベル
たくさん出るから画像はぐぐって
そして中身は不思議ちゃん
ツイッター:http://twitter.com/GEM_maaya_ist
もうね
武田一族、又は武田家ヲタは無理してでも推していくべきでしょ!
福井県はすでに接触してる逸材
GEMとか他のメンバーは個人の好きなように 甲斐武田の子孫を詐称していたモデルの末路を見たばっかやん
>>287
アメリカに2年留学だって
もちろんプライベートじゃないぞ
ヲタ間ではえらいことになってる 流鏑馬の武田流・小笠原流の武田流は、若狭武田流のこと。どちらも甲斐源氏には違いないが。
>>294
土佐国安芸武田です
(^-^)人(^-^)ナカーマ
同じ流れですね 無学ですみません
>>119>>120
その辺りを詳しくご教授お願いします
結局、どちらが主流なのでしょうか? ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
不覚にも勃起した
>>311玉川町でしょう?
門構えの大きな家の農家が多いね (´・ω・`)パ-ン
⊂彡☆))Д´)
>>23 ボッコボコに
してやんよ!
∧ _∧
( ・ω・)=つ≡つ
(っ ≡つ=つ
./ ) ババババ
( / ̄∪ >>23 ♪ ♪ ♪
ヘイヘ〜イ、オマイラ〜♪
♪ ∧_∧
(´・ω・) ))
(( ( つ ヽ ♪
〉 とノ )))
(__ノ^(_)
タノシソ〜ウダナ〜♪
∧_∧
(( ( ・ω・`)
♪ ノ ⊂ ) ))
((( ヽつ 〈 ♪
(_)~ヽ_,)
来いやぁ〜〜!
∧_∧
(`Д´)
(⊃⌒*⌒⊂)
/_ノωヽ_) >>23 ネタに乏しいからなあ。
戦国時代の若狭兵はどの程度の強さだったのか語れる人が来ないかなあ。
若狭武田家は、過小評価されて当然。
元光、信豊、義統、元明まで歴代全部が家臣の争いを止められないわ、父子で争うわ、家督を放り捨てて歌の道に逃げるわ、朝倉に侵攻されて当主が拉致されるわ。
どこに当主としてのアイデンティティがあるの? 甲斐や安芸の武田よりひどい。
>>324
つまり現状ではまともに評価されていないということか >>329
激戦だったから
「若狭兵は弱い」
とも言えないみたいだな。
ただし強くもなかったのでは? 勝ってたら室町幕府を簒奪し将軍になって天下統一していたかも。
>>332
地理的に守りにくい感じがするし、
戦なれした勢力が近くにいたから、
なかなか身動きがとれなかったってのはあると思う。
地理的なハンディキャップがあったと思うね。 関東勢は北条のせいでみんな貧乏くじを引いて潰れた。
太田、大石、足利長尾、由良、成田、内藤、キタ条、、
伝承だと千葉も信長と誼を通じようとした当主を軟禁追放しているし、目先の安全だけを選んできた結果だろうね
まあそうしないと北条に潰されたところばかりだろうけど
>>335
千葉氏の立地条件だと、信長と手を組んでも当面はメリットがないと思うんだが。 >>335
信長が関東征伐に来るのはかなり後になりそうだし、信長だと小田原落城させたりなんてことできなさそう
なかなか思うように落とせなくてヒステリック起こして部下を追放してとりあえずあきらめて撤退するのが目に見えてる ちょうど三国同盟が崩れた時期の話で、北条が上杉と手を結んだことに不信感をもった可能性が示唆されてる
まあ、その人物千葉良胤の存在が確認されていないんだけどw
てか、だったら信長じゃなく、真理谷経由で信玄に近づいたほうがまだ現実的かな
真里谷武田が上総武田嫡流の長南武田を凌いだのは、名門によくある展開だよなぁ
>>340
尾張の守護代一族の争いを見ればね。本家も他の分家も
津島湊の弾正忠家に敗れ去りましたからな。どこでも分家や傍流が
鼻息荒い。 >>337
ただしこの時期になると
「やがては信長が日本全土を制圧するんじゃないか? じゃあ今のうちから仲良くしておくか」
と考える大名小名もいたんじゃないかなあ?
奥州の伊達氏もわりと早期から信長に進物を送ってきていたと思うが。 >>342
それは信秀の存在が大きいのでは?津島(木曽川の河港)の水運で蓄えた財と
兵力を有効活用して、織田一族の争いに勝ったわけだし、内裏の築地塀の修繕費を
出していることからも周辺国から一目置かれてたのは事実だろうね。酔客を装い、
那古野城を今川から奪取したのも信秀だしね。 訳がわからない
織田弾正忠家を周辺諸国から一目置かれる存在したのは信秀だけど全国の諸大名から進物を送られるほど強大にしたのは信長だろ
岩井三四二氏の「城は踊る」の舞台のモデルは真里谷か庁南武田の一族みたいだね。
武田左近将監て、庁南武田っぽいけど。
∩ ∩
( ・(ェ)・)アゲル……?
_| つ/ヽ-、__
/ └(_____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
>>346
今どきシルバー仮面のステマをやる人がいるとは思わなかった。 (´・ω・`)パ-ン
⊂彡☆))Д´)
>>354 警察、創価と在日マフィアによる集団ストーカーの模様
(車両ナンバーつき)。
怖ろしくておもらししそう´・ω・` 武田六角京極同盟
>>358
あやしいが、可能性としてはまったくないわけではない。
記録に残っていない人脈もあっただろうし。 富樫氏もあちこちに散り散りになって逃げた先の土地で世話になってるしな
確か仙北のほうの戸沢氏だったか小野寺氏だったかの家臣になって
戦国期を生き抜いていた富樫氏みたいなのもいる
富樫氏と血縁関係にある朝倉家臣の溝江氏
越前芦原の溝江氏は領地が隣接する越前三国の堀江氏の監視も任されていた
反抗的な堀江氏には懐柔策として若狭武田氏から朝倉氏の口利きで嫁が入っている
朝倉氏を介して加賀の勢力と若狭の勢力に交流があってもおかしくはないかもね
武田義統って信豊12歳のときの子なのか?
さすがに兄弟ではないのだろうか
若狭武田氏の一族で北海道に逃げた者がいるらしい。
最近知ったが、行動力がスゲーな。
時期としてはまだ室町の頃みたいだけど。
>>363
松前氏の先祖は若狭から来たと自称。
ちなみに登別温泉銘菓「わかさいも」の「わかさいも本舗」の創設者は若狭出身。 >>364
そう、松前藩の祖先になったみたいだ。
家督争いから逃れて京に上がり、さらに東北に落ち延びて安東氏に仕え、南部氏との戦いに破れて安東氏に従って蝦夷地に逃れ、
ってすげー遍歴。
貴種流離譚なのか、悲惨な没落物語なのかって所。 >>358
記録に残ってない人物がいたにしろこの時期ならそこまで落ち延びなくても本願寺と敵対している朝倉家でいい気がする >>368
2020年『麒麟がくる』越前朝倉義景の一子阿君丸毒殺回で
義景正室の若狭武田氏女が登場したよ 阿君丸の母親は鞍谷氏の娘で若狭武田氏の女性ではないね
若狭武田家内の反当主の一門の娘が和解後に当主の養女となってその後、朝倉氏に嫁入りした
英林孝景の継室で宗滴の母親も若狭武田氏の家臣から養女になった女性
>>366
>家督争いから逃れて京に上がり、さらに東北に落ち延びて・・・
松前氏遠祖武田信広が家督争いとか上洛とかいうのは
何という文書に記されてあるの?
信広幼年期とされる年代には未だ後年の若狭武田氏は
若狭未入部で在京か安芸国在国だったのでは? >>375
信広若狭国小守護代武田氏出自説ですか?
松前氏祖武田信広の出自について : 従来の説の再検討と新しい可能性の提示 和氣俊行 2003年 松前氏スレより
348 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2019/01/29(火) 22:16:36.50 ID:3ach5Yh0
松前家の家祖とされる武田信広の正体は
蠣崎蔵人の乱を起こした蠣崎蔵人本人だと
思われる。
蠣崎蔵人は南部政経に敗れたあと、自害も討死もしていない。蝦夷地に逃れたと南部氏系の史書にも記されている。
蠣崎蔵人が蝦夷地に逃れた後、唐突に武田信広という男が歴史に現れてくるが、時代的にあまりにも符号しすぎている。
武田信広=蠣崎蔵人で間違いない。
いずれにしてもアイヌの血筋ではない。
364 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2019/02/09(土) 13:59:21.15 ID:9sMnD58t
確かに。
蠣崎蔵人信純、自称は甲斐武田氏の末裔。
武田信義から五代目の末と称す。
武田信広、自称は若狭武田氏の末裔。
武田信賢の三男と称す。
しかし、若狭武田氏の系図に信広らしき人物は見当たらず、松前藩側が伝える父子兄弟の名前、在世年数など付き合わせるとかなり目茶苦茶。
蠣崎蔵人の乱、長禄元年2月に蠣崎城が落城し、蠣崎蔵人信純は蝦夷地に逃れる。
長禄元年5月にコシャマインの乱勃発。
花沢館の蠣崎季繁の客将だった武田信広が侍大将になり初めて歴史に姿を現す。
どうみても同一人物だな。
河村 昭一(著)『安芸武田氏』戎光祥出版 の巻末年表によると、
「成宗大王実録」を典拠に若狭の武田信賢は朝鮮に使者を派遣したとされているが、
一体何が目的で朝鮮に使者を派遣したのだろうか
まあ普通に考えて通商でしょう
何か特別な意図があって送ったとは思えないけど
一説には鷹狩のある流派は朝鮮から越前敦賀を経由して
日本国内に広まったものもあって(当然、古来より日本にも鷹狩自体はあったが)
若狭湾を通して朝鮮や唐から様々な財物や文化も行き来してただろうし